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2019.03.15

セカンドキャリア 碇美穂子

  • セカンドキャリア

セカンドキャリア

次の夢に向かって第三回

 

愛知ディオーネ監督

碇美穂子

女子野球発展のために

男女を問わず、プロ野球選手にはキャリアを終えなければならないときがいずれ訪れる―。

ある者は野球に関わる道を選び、またある者は野球とは無縁の日々をスタートさせる。

さまざまな「第二の人生」がある中で、今もなお女子プロ野球発展のために尽力しているのが、

プロ1期生として活躍し、現在は愛知ディオーネ監督の碇美穂子さんだ。

彼女はどんな思いで若き選手たちと向き合い、どんな夢を抱いているのか?

文/長谷川晶一撮影/舛元清香

 

女子プロ野球1期生にして、現在は唯一の女性監督

 女子野球の名門・埼玉栄高校女子硬式野球部出身者を取材していると、誰もが口にするフレーズがある。

「私たちには女子野球を広めていく責任と義務があります」

 これは、女子硬式野球部・齋藤賢明監督が長年にわたって、部員に伝え続けてきた言葉だ。2003年から05年まで同校に在籍し、3年時にはキャプテンを務めていた碇美穂子さんも、やはりこの言葉を口にした。「埼玉栄を卒業してからずっと、〝女子野球をもっと広めたい〞と思っていました。だから今、こうして監督として女子野球に関わりながら、若い選手を育てているというのは、本当に幸せなことなんです」

 14年シーズン限りで現役を引退して、すでに4年目を迎えた。兵庫ディオーネ、愛知ディオーネ監督として、16年には年間女王に輝き、17年にはシーズン優勝も達成した。プロとアマが一堂に会するジャパンカップは15年、16年と連続で制覇した。

 監督生活も4年目を迎え、指導者として円熟期にさしかかりつつある。18年シーズンは埼玉アストライアが辻内崇伸監督、京都フローラが川口知哉監督、そしてレイアが松村豊司監督。いずれもNPB出身の男性が監督を務めている。その中で唯一の女性監督が碇さんだ。

 女子プロ野球1期生として、10〜14年まではリーグを代表する名捕手として活躍し、ブランクを挟むことなく15年からは監督に就任。発足当時のGPBLから現在のJWBLまで、女子プロ野球リーグとともに歩み続けている。

高校時代には日本代表になり、田中碧さんとバッテリーを

 小学生の頃から野球が大好きで、中学時代には男子投手とバッテリーを組んでいた。キャッチャーの魅力を問うと、笑顔がはじけた。

「キャッチャーってすごく楽しいし、カッコいいと思いませんか? 試合の中で、ピッチャーと呼吸が合う瞬間があるんですけど、その瞬間はなんとも言えない気持ちよさなんです」

 中学2年生のときに「女子野球」の存在を知った。男子に気兼ねすることなく、女子だけでプレーすることに、大きな魅力を感じた。すぐに埼玉栄高校が志望校になり、その夢を現実のものとしていた。

 埼玉栄高校入学以来、同じ志を持つ仲間たちと切磋琢磨する日々が続いた。あるとき、7人の同期たちでおそろいのTシャツを作ることになった。全員でスポーツショップに出かけ、そこに置いてあった「四字熟語事典」を見ていると自分たちにピッタリな言葉を見つけた。

 ―一味同心。

  意味を読むと、「目標に向かって、心をひとつにして力を合わせること。またその仲間たち」と書かれていた。迷うことなくTシャツ、練習用ウエアにこの言葉を刺繍することを決めた。

 以来、「一味同心」の仲間たちとの結束は強くなっていく。そして、その中には後に一緒にプロ入りすることになる田中碧さん(元兵庫スイングスマイリーズなど)の姿もあった。

 埼玉栄高校2年時の04年には碇さんも、田中さんも、ともに日本代表選手に選ばれ、カナダで行われた第1回女子野球ワールドカップに出場。日本の準優勝に貢献していた。高校時代のことを碇さんが振り返る。

「高3のときからもう13年も経つんですね(笑)。あの頃のことはハッキリと覚えています。本当にいい仲間たちと野球を楽しんでいましたね」

 この頃、彼女が抱いていた夢がある。それが、齋藤監督が常々口にしていたように「女子野球を広めていきたい」という熱い思いだった。

「高校を卒業する頃に抱いていた夢は、大学で教員免許をとって、教員として女子硬式野球部の指導をしたい。そんな思いでしたね」

 高校卒業後は大学に通いながら、クラブチーム・侍で活動を続けた。当初の予定通り、大学卒業後には教員となるつもりだった。現役生活は大学4年間で終えるつもりだった。

 しかし―。

 大学4年の夏、思いもよらないニュースが飛び込んできた。「翌春から女子プロ野球リーグが発足する」という知らせだった。

転機となったのはプロ3年目、ブレイビーハニーズでの奮闘

「大学を卒業して、教員になるつもりでいました。でも、大学4年の夏に女子プロ野球リーグができることを知って、ワクワクしました。すぐに(田中)碧にも相談したけど、二人とも何も迷うことなく、〝(入団テストを)受験するしかないよね〞って(笑)。このときもまた、齋藤先生の言葉を思い出したんです……」

 それは、「君たちが野球を続けていれば、いつか誰かが見ていてくれるよ」という恩師の言葉だった。

 碇さんに何も迷いはなかった。むしろ、「私がプロに入るべき」という強い思いを抱いていた。09年秋に行われた入団テストにおいて、碇さんも田中さんもともに合格。碇さんは京都アストドリームスへ、田中さんは兵庫スイングスマイリーズへ入団することが決まった。

 関東の女子野球リーグ・ヴィーナスリーグで活躍した経験者が多かったスイングスマイリーズに比べて、碇さんの所属したアストドリームスは川端友紀選手(現・アストライア)のようなソフトボール出身者、三浦伊織選手(現・フローラ)のようなテニス出身者など、硬式未経験者が多かった。そのため、リーグ創設1年目、2チームで始まったリーグ戦ではスイングスマイリーズが圧勝。なかなか勝てないチーム事情に胸を痛めていたのが碇さんだった。

「当時は、〝このチームでは勝てないんじゃないか?〞と思ったこともあります。選手同士が本気でぶつかり合って険悪なムードになったこともありました。でも、後々考えたら、〝アストドリームスに入ってよかった〞と思っている自分がいるんです」

 チームが弱かったからこそ、シーズンオフには徹底的にしごかれた。「もう二度と戻りたくない」と思うほどの猛練習。しかし、振り返ってみれば「あれがあったから、今がある」と思えるかけがえのない瞬間となっている。

 そして、現役時代の碇さんにとって、「もっとも忘れられない1年」であり、「最大の転機となった年」、それがプロ3年目の12年に新たに誕生し、この年限りで消滅した大阪ブレイビーハニーズへの移籍だった。この年、碇さんと田中さんは初めてプロで同じチームになる。高校、大学と7年間バッテリーを組んだ旧友との再会は心躍るものだった。

「プロに入って初めて碧とバッテリーを組めたのはうれしかったですね。私自身、プロでの2年間は伸び悩みを感じていました。でも、当時の平下晃司コーチ(元近鉄バファローズなど)にキャッチャーとして一から鍛えていただいて、トレーナーの方には強さと柔らかさのバランスを教えてもらって。それで自分自身が、一皮むけたと思います」

 しかし、新たに発足したばかりのチームはまとまりに欠け、低迷したまま前期を終えた。キャプテンだった碇さんは、「どうやってチームをひとつにするか」に心を砕いた。

「前期が終わったとき、球団代表、監督、コーチ、キャプテンの私で、後期に向けての対策を真剣に話し合いました。

 

「毎日野球のことだけを考えていた幸せな現役生活でした」

 

このときから、少しずつ何かが変わっていった気がします」

 代表からは、「常に前を向いて、《優勝》という言葉を口にし続けよう」と言われた。福間納監督(元阪神タイガースなど)、平下コーチとは、「守備力をもっと強化しよう」と、課題や修正点を洗い直した。そして、自身はキャプテンとして、選手たちとの接し方をあらたた。

「今までは年上の先輩に対する遠慮がありました。でも、チームをまとめるために、思ったことは口うるさく言おうと決めたんです」

 こうした小さな積み重ねの成果か、後期のブレイビーハニーズは勝ちまくり、後期優勝、さらにプレーオフでの年間優勝も果たした。

 

「〝碇に預けたい〞って言ってもらえる監督になるために、もっともっと頑張ります」

「優勝を決めた日の試合前のミーティングで、私は思わず感極まって泣いてしまいました。私は、高校時代もクラブチーム時代もいつも強いチームでした。でも、ハニーズは弱いところから、みんなで強くしていったという思いがありました」

 プロ3年目、選手として、キャプテンとして、円熟期に差し掛かっていた。

完全燃焼した現役生活を経て、夢はさらに大きく広がって……

 しかし、翌年のリーグ再編によって、碇さんはレイアの選手兼任コーチとなった。

「この頃になると燃え尽き症候群というのか、選手としてよりも、コーチとしてのウエイトが大きかった気がします。4年目のオフには左ひざの半月板を故障し、歩くこともままならない状態。だから、プロ5年目、14年の開幕前には今季限りで引退しよう〞と決意していました」

 碇さんは「自分の持っているものはすべて後輩に伝えよう」と決めた。後輩への指導時間が長くなれば、必然的に自分の練習時間は短くなる。だからこそ、「質のいい練習をしよう」と心がけ、無駄なく効率のいい練習を心がけるようになった。

「この年の私はほぼ代打専門。でも、代打で8割ぐらいの出塁率を記録しました。それは今でも私の自慢です。だから、後悔なく引退できました。毎日野球のことだけを考えていた幸せな現役生活でした」

 完全燃焼。もう選手としては何も思い残すことはなかった。そしてこのとき、あらためて高校時代の恩師・齋藤監督の言葉がよみがえる。

(私たちには女子野球を広めていく責任と義務がある……)

 幸いにして、女子プロ野球機構からは「指導者にならないか?」という打診を受けていた。

「私はプロ1期生として、このリーグにお世話になりました。このリーグをもっと大きくするために、自分ができることは何でもしたい。そんなことを思っていたとき〝指導者にならないか?〞と打診されました。何も迷うことはありませんでした」

 こうして15年から監督としての道を歩み始めた。楽しいことや辛いこと、喜びも悲しみも感じながらがむしゃらに突き進んだ歳月だった。

「監督としての喜びは、選手が練習していたことが試合で発揮されたとき。逆に辛いのは、自分ではちゃんと伝えたつもりなのに、きちんと伝わっていなかったときかな(笑)」

 プロ1期生で、高校時代からの親友である田中碧さんはすでに埼玉・叡明高校の女子硬式野球部の監督を務め、やはりプロ1期生で、花咲徳栄高校時代からよきライバルだった小久保志乃さん(元兵庫スイングスマイリーズなど)は、現在岐阜第一高校の女子硬式野球部監督だ。

「碧も志乃も、私にとって誇りです。かつての仲間がみんな真剣に今でも野球と向き合っていることは、私の頑張る原動力になっています」

 かつて、碇さんが埼玉栄高校グラウンドで白球を追っていた当時は女子硬式野球部を持つ高校は全国に5校しかなかった。それが今では、30校に迫る勢いとなっている。

「今の私の夢は、碧や志乃の高校の卒業生たちがプロ入りすること。自分の教え子を〝碇に預けたい〞って言ってもらえるような監督になるために、もっともっと頑張ります」

 指導者として、まだまだ学ぶべきことは多い。それを自覚しているからこそ、「とてもやりがいがある」と、その表情は明るい。さらなる女子野球の発展のために、碇さんはこれからも歩みを止めない―。

いかり・みほこ

1987年7月20日生まれ、31歳。東京都出身。埼玉栄高校時代の04年に日本代表選手に選ばれ、カナダ・エドモントンで行われた第1回女子野球ワールドカップに出場。準優勝の立役者となる。大学に通いながらクラブチーム・侍に所属し、全国大会優勝など華々しい実績を引っ提げて、10年に1期生としてプロ入り。強肩、巧打の捕手として活躍。12年、大阪ブレイビーハニーズではキャプテンとして、チームを優勝に導く。14年に現役引退。5年間の現役生活では、京都アストドリームス、大阪ブレイビーハニーズ、レイアに在籍。晩年は故障に苦しむものの、リーグを代表する名捕手として存在感を誇った。翌15年からはディオーネの監督に、現在5年目のシーズンを戦っている。

 

 

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