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2019.12.23

”新たな夢の始まり” セカンドキャリア 野々村聡子

”新たな夢の始まり”

 

グランドを颯爽と走り抜ける野球選手に憧れ、その夢を実現させた野々村聡子さん。難関をくぐり抜けて女子プロ野球の世界に身を投じたが、その夢はわずか2年で終わってしまう。悔いが残るその2年の経験を、次の世代の選手を育てる糧にしている。これからその夢のバトンを、どう渡していくのだろうか。

 

男友だちを誘って野球に明け暮れた日々

 

小学生の頃、家族で出かけた旧広島市民球場。そこが、野々村聡子さんの夢のスタート地点になった。

 

土にまみれて、勇ましくプレーする広島東洋カープの選手たち。風のように走り抜けるその姿は、それまで、テレビやラジオを通してしか知らなかった華々しい夢の世界だった。躍動する選手の姿を目のあたりにし、「野球がやりたい」と両親に告げた。

 

一度宣言すると、もう後ろを振り返ることなく、ひたすら前を向いて突き進むのが性分。通っていた小学校、中学校は大学の付属校で野球部がなく、自ら男友だちを誘って、野球に明け暮れる日々を送った。高校進学を控えた中学3年生になると、女子ソフトボール部がある高校を自ら探して、福山誠之館へ進学。毎日、片道1時間以上かけて通学することも苦にはならなかったという。

「子どもの頃は、体を動かす仕事に就きたかった。両親が学校の先生をしていたので、体育の先生もいいかな、と考えたけど、両親からは『これからの時代、教師も難しくなってくるよ』って言われていました」。そ

れでも、頭の中では着々と〝先生〞という夢を描き始めていた。

 

大学選びの際には、体育系の教員免許を取得できることを条件にした。そして、大好きな野球ができること。その2つの条件を満たす大学を探し、奈良教育大学に進学した。野々村さんにとって、野球ができる環境に身を置けることが、この上ない幸せだった。

 

大学入学後は、男子硬式野球部の練習に参加すると同時に、関西女子硬式野球チーム「大阪BLESS」に入団。しかしここで、理想と現実のギャップを痛感することとなった。当時、大阪BLESSにいた20名近くの選手の中には、日本代表経験者や現役の代表選手が何人もいた。

「自分の技術力とは全然違う。正直、大変な場所に来てしまったなと感じました」

 

一瞬、辞めることも考えたが、子どもの頃から夢見た、大好きな野球に没頭できる幸せな環境。みすみす手放すわけがなかった。

「とりあえず教員免許を取得しておけば、大学卒業後の将来を今すぐ考えることもなく、なんとかなる」

 

そう信じて、ひたすら野球に打ち込む毎日を過ごした。

 

背水の陣で挑んだプロ入団テスト

 

2009年8月。野々村さんの野球人生にとって、大きな転機が訪れる。関西を拠点に、女子プロ野球リーグが発足したのだ。このとき、野々村さんは大学4年生だった。その年の秋、京都(わかさスタジアム京都)と関東(西武ドーム)の2ヵ所で入団テストが行われ、その合格者で女子プロ野球チームが編成されることになった。

 「風の噂で女子プロ野球誕生の話は耳にしていた」という野々村さんは、迷うことなく女子プロ野球の世界に身を投じる道を選んだ。ただ、両親には心配をかけまいと、同時に広島県の教職員試験も受験。一次試験に合格し、二次試験の面接に進んだ。その面接前日が女子プロ野球リーグ発足の発表日だった。担当面接官は、野々村さんにこう訊ねたという。

 「今朝の新聞で、女子プロ野球発足の記事を見ました。野々村さんは、ずっと野球をされていたんですよね。興味はないんですか」

 

まるで、自分の本心を見透かされたような質問だった。思わず「私は

広島県の教育行政のために邁進したいと考えているので、先生になります」と答えたという。それでも、面接官は、野球をやりたいという野々

村さんの本心を見抜いていた。二次試験で不合格となった野々村さんは、入団テストを受験。もしも、女子プロ野球の入団テストにも落ちたなら、他の都道府県で教職員試験を受け直すか、関西に残って講師の職に就くことも視野に入れていた。しかし、それは杞憂に終わった。本命の、女子プロ野球入団テストに見事合格したのだ。両親に、「女子プロ野球の選手になる」と告げた。不安を抱く両親を説得し、新たな挑戦が始まった。

 

12月には、女子プロ野球第1回ドラフト会議が行われた。野々村さんは、外野手として兵庫スイングスマイリーズから3巡目で指名され、入団。ここから、無我夢中の野球人生が始まった。毎日、朝から昼すぎまでひたすら練習に打ち込むと、夕方からは引退後を考えて、柔道整復師の資格を取るために専門学校に通った。年間40近く試合がある中で、試合で学校に行けないときは補講を受けた。選手のセカンドキャリアを考え、学費は球団から支払われていたため、当然、学校をサボることなどできない。クタクタに疲れた体のまま、学校に通う日々。大学の恩師や教員に就いた同期からは心配されたというが、野々村さんの中には、大好きな野球ができる喜びしかなかった。北海道から福岡まで、全国を回ってお客さんの前で野球をする。その上、給料ももらえる。もっと野球がうまくなって、もっと試合に出たい。活躍したい。そんな思いで、日々を過ごしていた。

 

 

「選手時代とは違う楽しさがありますね」

 

第2の野球人生思わぬ監督打診

 

しかし、現実は甘くはなかった。2年目のシーズンが終わった直後。球団事務所に呼ばれて、無情の通告を受けた。「選手としてプレーできないのであれば、もう辞めよう」。決めたらすぐに行動に移すのが、昔からの性分。そこは変わらなかった。

 

在籍年数はわずか2年。試合出場も、1年目が18試合で2年目が16試合。足の骨折や指の脱臼など度重なるケガにも泣かされた。たった2年間のプロ野球人生の中でも、絶対に野球に対する情熱だけは、誰にも負けないと思っていた。だからこそ、選手としてプレーできないのであれば、潔く身を引く気持ちになったのかもしれない。

 

すぐに、故郷の広島へ戻る準備を始めた野々村さん。柔道整復師の資格を取るために通っていた専門学校も退学しようと手続きに行くと、職員からこう言われたという。

「今学校を辞めるのはもったいない。残り1年半、きちんと学校に通ったら、あなたなら柔道整復師の資格を取得できる」。

そう言われ、地元・広島で通える学校のリストを手渡された。これまでの真面目さを、周囲が認めていたからこその配慮だった。野々村さんはその優しさを受け入れ、両親に「もう1年半だけ学校に通わせてほしい」とお願いし、すぐにリストの一番上に記されていた学校に電話をした。

 

2011年12月。リストの一番上にあったMSH医療専門学校に挨拶に出向き、編入をお願いした。すると思いがけない言葉が返ってきた。

「近い将来、うちの学校に女子野球部ができる予定です。うちの学校に入って、監督としてチームを引っ張っていってほしい」。予期せぬ言葉に驚きながらも、こう感じた。

 

人生は全てタイミング。このタイミングでいただいた話、思い切って乗ってみよう」

 

通常、専門学校への編入は4月だが、野々村さんは年度途中の1月からの編入が認められた。

 

当時、MSH医療専門学校には男子の野球部と女子のソフトボール部しかなく、女子野球部はまだ影も形もない状況。野々村さんは、監督就任についてはチームとしての形が見えてきた段階で、あらためて学校側と相談することを前提に編入。そして2013年、野々村さんが専門学校3年生のとき、ソフトボール部を母体にして女子野球部が動き出した。

 

「はじめはコーチからでいいです、と話をしたんですけど、いずれは監督になる訳だから、途中で立場を代えるよりは、最初から監督でお願いしますと言われました」

 

学校側は指導経験のない彼女のために、広島商業や堀越高校を率いて甲子園出場の経験がある桑原秀範さんを総監督に迎え、野々村さんが監督としてのイロハを学べるよう環境を整えた。「恥ずかしいけど、最初、桑原さんの存在はほとんど知らなかったんです。指導に来られる中で、サインを出すタイミングなど戦術などを教えてもらって」。実の親とほぼ変わらない年齢であり、選手から見ればほぼ祖父と孫にあたる年齢差の桑原さん。当初は、それぞれが意見を主張し衝突することもあったというが、だんだんと、総監督の桑原さん、そして監督の野々村さん、選手たちの関係がうまくまとまるようになっていった。

 

指導者になって、7年目を迎えた現在。野々村さんは、午前中は専科教員として授業をした後、午後からは車で西方面へ1時間ほど移動した大竹市のグラウンドで監督として指導にあたり、毎年行われる全国大会に向けて、練習を積み重ねている。試合のない週末は、翌年以降のチーム編成のためにスカウト業にも取り組んでいるそうだ。

「現在、メンバーは1年生から3年生まで17名。北海道から、南は奄美大島出身の子までいます。九州出身者が多いかな。野球をするためにうちに来る子もいれば、もちろん、柔道整復師としての資格を取るためにやってくる子もいる。入部の理由はさまざまです」

 

監督としてのキャリアを積み重ねる中で、やりがいを感じられることも増えた。

「勝つために、どんな選手を補強すればいいのかを考えて、チームを作り上げていく。練習をして、ひとつのチームになって勝っていけたらうれしいし、選手時代とは違う楽しさがありますね」

 

監督としての野球と、選手としての野球。野々村さん自身には、選手として活躍しきれなかったという悔いがある。

「自分のこれまでの野球人生を振り返ってみると、やっぱり思うところはあります。ケガをしたときにもっときちんとケアしておけばよかったんじゃないのか、そうすればもう少し長くプレーできたんじゃないか。そんな悔いはありますよ」。

 

野々村さんは、数秒の沈黙のあと、もう一度繰り返した。

 「悔いしかないですよね」

 

小学生の頃、両親の影響を受けて体育の先生になりたいと思っていた少女が、野球と出会い、夢でもあった女子プロ野球の選手になった。プロ生活こそ長くはなかったが、散ってしまった夢のその先には、もっと大きな人生のやりがいが待っていた。

 

2016年には、元プロ野球広島東洋カープの選手だった鈴木将光さんと結婚。ご主人も鍼灸師としてのセカンドキャリアをスタートさせたばかりだった。

「将来は、もっと女子野球が広まるようにサポートをしたい。その中で、主人と一緒に治療院を兼ねた野球塾を開くのも夢かな」

 

夢の途中で味わった挫折。それでも、その挫折をバネにしてひたすら前を向いてきた野々村さん。その瞳の奥には、充実感に満ち溢れた光が輝いていた。

 

野々村 聡子(ののむら・さとこ)

1987年7月23日生まれ、広島県出身。小学生の頃に旧広島市民球場で広島東洋カープの試合を観戦したのがきっかけで、野球に夢中になる。奈良教育大学進学後、女子硬式野球クラブ・大阪BLESS に所属。2009年、入団テストに合格し女子プロ野球の世界へ。11年に退団後は、広島市内にあるMSH医療専門学校の女子硬式野球部立ち上げのサポートを行い、現在は監督を務める。

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